清水安三先生の略歴

清水安三先生は、大正時代から終戦までキリスト教の派遣伝道者として中国に渡り、日本の半植民地支配に苦しむ貧しい人々に心を寄せ、特に弱い立場にある少女の教育に尽力し崇貞学園と称する女子学校を創立、夫人(先妻の美穂夫人、後妻の郁子夫人)とともに命をかけた愛の教育を実践し「北京の聖者」とたたえられた方です。

戦後は、東京都町田市に園児、生徒、学生が学ぶ総合学園「桜美林学園」を開設されました。

1891年(明治24年)
滋賀県高島郡新儀村北畑(滋賀県高島市新旭町北畑)に生まれる
1906年(明治39年)
滋賀県立第二中学校(膳所高校)入学
1910年(明治43年)
同志社大学神学部入学
1917年(大正 6年)
中国に渡る
1921年(大正10年)
29歳の時、崇貞工読女学校を創立
1936年(昭和11年)
崇貞学園となる
1945年(昭和20年)
終戦(日本敗戦)により、崇貞学園などの施設は北京市政府教育局に接収され、無一物で帰国
1946年(昭和21年)
桜美林学園認可
1975年(昭和50年)
新旭町制20周年記念名誉町民の称号を受ける
1988年(昭和63年)
死去(享年96歳)

清水安三先生とは? 「広報たかしま」から

滋賀県高島市の広報たかしま「2013年(平成25年)1月号」で、特集:偉大なる教育者 清水安三が組まれました。人生の全てを教育にかけた清水安三先生とはどのような人物だったのか? が紹介されています。PDFファイルを入手しましたので、ご覧いただける方はダウンロードしてください。

学而事人(がくじじじん)

これは、清水安三先生が終生大切にした言葉で「学問は決して自分のためだけにするものではありません。身につけた力を社会に役立てることが大切です」という意味です。

清水安三先生の生まれ故郷である滋賀県高島市新旭町の市立湖西中学校の校門近くにも「学而事人」の碑が建っています。